輝山登山道整備を行っています

 今年は篠原憮然没後百年目となり、残された功績を偲び記念式典を進めています。平湯地域にある輝山山荘は先生が夏の間籠り、いろいろな原稿の執筆や自然を極めようとされた場所であり、この頃活動を続けていた焼岳を目の前にした所です。
記念式典までには何とか登山道を復活する作業を地元有志で行っています。
篠原憮然(本名禄次)
大正3年瘦身白皙の青年紳士が上宝村役場へやって来ました。岐阜県知事を介して内務大臣の紹介状を持って飛騨入りし、吉城郡役所で上宝村へ行くよう勧められ、役場を訪れました。時の村長に本人が述べた希望がまた変わっていました。
「なるたけ僻地に住まわしてもらうよう。表面に立つ役目はしないでよい事、講話等もしないでよい事、月給は最低の生活を支へ得る程度でよい事、決して増俸し無い事」等を頼み小学校代用教員として勤務する約束をしました。
この青年教師こそ「平湯の聖人」、「大正の釈迦」、「飛騨の社会教育の父」と言われる篠原憮然です。禄次は兵庫県美方郡西浜村で明治22年に長男として生まれ、大正3年から4年は上宝第一小学校に勤務し、大正5年精神修養深化のため、さらに僻地を求め平湯分教所へ転任しました。平湯では、学校の勤務と同時に、地元開発及び習俗の改革に熱情的に取り組み、青年会、処女会、戸主会の創設指導を行って、地域に深く入っていきました。
そこでは理想的な湯の村づくり、登山道の整備や標識の設置、温泉地として今後発展する最適な地域であることを自覚させました。
大正8年自らの修養・研究に専念するためと工女救済問題に徹底して取り組むため教職を退きました。
当時飛騨の娘が五円から十円の前借金で、糸挽工女として出稼ぎに行くことに関心を深めており、そのような状況から生ずる社会問題に取り組みました。
岡谷共同病院の入院・外来患者を調べ衛生風紀上の問題が増加していることを指摘し、また、飛騨工女出稼ぎ工場の調査を各地に出向いて行い、それらを基に共同出稼ぎ組合設立を行いました。
大正12年の関東大震災では、東京に行き知人を慰問したり、震災の調査をおこなったりし、大阪では病院に勤務し、入院娼婦約200名の相談・訓育・校正指導に当たりました。
しかし関東大震災後の東京復興の新しい社会事業に関わるため、一時平湯へ帰ることとなり、大正13年11月12日に白骨温泉に到着、出迎えた平湯青年会の2名と再会を喜び合いました。13日は著述の原稿が到着しないので2名の青年会員を帰し、14日朝、雪間が晴れたので出発し安房峠にて遭難されました。